関西の情熱社長

株式会社鯖や

サバ博士
右田 高有佑
設立
  • 平成19年6月
事業内容
  • さば寿司の製造、販売
会社HP

【story.1 貧弱者の逆襲】

中学生時代はいわゆる小ヤンキー。
コバンザメのように不良の後ろについて、
喧嘩をふっかけるわりには戦わない、みたいな(笑)
体も小柄で貧弱だったんですよね。
それでもとにかく目立ちたがり屋で、
バンドにスポーツとモテることはひと通りやりましたが、全て中途半端。

そんな私が高校生に上がるとある友人からの一言で一変します。

「ほんっと貧弱やなぁ」

貧弱な体を見られたくなくてプールの授業をさぼるほどもともとプライドが高かった私は、
この友人の一言で決意しました。
マッチョになって見返してやる!と。

その後その友人が小さい頃から通う少林寺に入り、
ひたすら練習に打ち込み、もともと才能があったのか、
面白いくらい強くなっていく自分に快感を覚えていました。
ちなみにその友人は3年で抜いちゃいましたね(笑)

【story.2 単身オーストラリアで武者修行】

それまで何もかもが中途半端だった私が、格闘技には信じられないほどのめりこみ、
高校卒業後も居酒屋や魚屋でアルバイトをしながら少林寺に通い続け、
関西の大会では上位の常連に並ぶまでになりました。
そのうち少林寺に飽き足らず、もっと強い相手を求めて極真空手に入門しました。

まもなくして海外から帰ってきた友人の話に触発され、
何も考えず単身オーストラリアへ渡りました。
渡濠早々、極真空手の道場に見学に。
見学だけのつもりで行ったそこで早速つわもの達の大洗礼を受けます。
顔がパンパンになりながら、正直1週間ほど悩んじゃいましたね(笑)

それでもプライドの高かった私は何もせずに日本に帰るわけにもいかず、
必ず一つはトロフィーを持って帰るという決意とともに、
再度道場に戻り、入門を決意しました。
そこで約3年間、最後は骨折しながらも大会に出場し、
見事準優勝という快挙を経て、日本へ帰国しました。

練習、仕事、語学勉強と、毎日寝る間も惜しんで走り抜けた3年間。
このオーストラリアでのストイックな経験が今の私を作っていると今では思います。

【story.3 サバとの出会い】

オーストラリア滞在中はある回転寿司屋で働いていて、
日本に帰る直前には2店舗だったお店が14店舗にまで拡大し、
その会社のいわゆる№.2のポジションにまで至っていました。
そのままメルボルンで分社社長になってほしいという嬉しいお誘いも断り、
日本で働くことを決意した私が日本に戻ったとたん、
ネットワークビジネスで失敗し財産が0に!

その後は弟が経営する会社で営業したり、生命保険の営業をしたりと職を転々し、
30歳、たまたま地元に空き物件を見つけ、そこで妻と二人で居酒屋を始めました。
もともと魚屋や寿司屋で働いていたので魚をさばくことは得意で、
料理がおいしいと評判になり売り上げも上々。
特にたまたま作ったサバの棒寿司が大好評で、
妻からの後押しもあってサバ一本で勝負することを決意しました。
株式会社鯖やの始まりです。

【story.4 サバに人生を懸ける】

サバという商品で何をもって自分たちの存在価値とみなすか、
これが私の人生のテーマです。
今の目標は名実ともに日本一のサバを提供すること。
そのために3つのこだわりを持っています。

一つ目は味。
日本中のサバを食べ歩きたどり着いたのが青森県八戸前沖サバ。
しっかり脂ののったこのサバで作る棒寿司は絶品。
それだけ希少価値が高いサバですから、最初に契約を頂くまでは何度も訪問しました。
一度食べていただいたらほとんどがリピート客になっていただけるほど。
味には絶対の自信を持っています。

二つ目に知名度。
サバ1本にこだわり続け、設立当時から様々なメディアに対するアピールを行ってきました。
サバの形をした宅配バイク「サバイク」に移動販売バス「サバス」、
サバを歌った「サバババーン」やサバ新聞。
とにかくありとあらゆるアイデアを形にしてきました。
その甲斐あってか新店を出すときはいつもメディアに取り上げられるようになりました。

最後に販売実績。
生協との提携をきっかけに、先ほどのサバスに乗って全国行脚をするなど、
他の追随を許さないほど販売実績を伸ばしていくことを意識しています。
最近強化しているネットでの販売もその一つ。
全国行脚の途中に子供たちにサバのおいしさ、素晴らしさを
同時に伝える食育の役割も担っています。

今後はまずはこの「とろ鯖棒寿司」を大阪名物にし、
さらには世界中に発信していけるようになりたいですね。
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